母の日のギフトの定番と言えば、以前は赤いカーネーションでした。最近の傾向を見ると、必ずしも花にこだわらなくなったようです。
赤よりもピンクのほうがかわいい。
花だけではものたらない、クッキーや和菓子を組合わせる。
生花はすぐ枯れるので、プリザーブドフラワーにする。
温泉やリックスできる場所に招待する。
ギフトをもらう側からの本音を聞いてみると、家族が集まって元気に食事会でもできることを望んでいるようだ。
母の日は単なる風習ではなく、家族それぞれが違う形で母への感謝を心から表現できる日になってほしいと思います。
母の日のお祝い
2014年5月2日金曜日
2014年4月15日火曜日
2014年4月8日火曜日
母は強し
母親とは何と強い存在なのでしょう。
同じだべ物、同じ住居、同じ活動、同じ環境であれば、女は男よりも長生きすると言われています。人間に限らず、雌は常に雄よりも強い存在です。
40年以上も前のことですが、まだ小学校4年生であった私は、ある日転んで足に怪我をしました。直ぐに病院に行って手当てを受けたのですが、一週間後、体に異変を感じるようになりました。怠いというか、体が思うように動かなくなりました。母は私を別の病院に連れてゆきましたが、「単なる疲れでしょう。」と言われるだけで、全く良くなりませんでした。
数日後、口を開くことが困難になりました。母は私の異常を感じ、また別の病院に私を連れてゆきました。今度は、「歯医者に行ってみては」と言われました。
次の日は日曜で、私は立つこともできなくなっていました。どこの病院もやっておらず、月曜日に大きな病院で診てもらうおうと母は考えましたが、水を飲むことすらできなくなった私を見て、病院を電話帳で探しては電話をかけまくり、「破傷風」という初めて聞いた病気の可能性を知りました。
その日、私は救急車で東大関連の病院に搬送され、奇跡的に命が救われました。医者の診断よりも、素人の母の直感が勝ったのです。
女性には男性には見えない色の微妙な違いが判るそうです。それは本能的に赤ん坊の体の具合を判断するために持っているそうです。
来月は、母の日です。定番のギフトを贈るのもよいでしょうが。感謝の気持ちははっきりと伝えましょう。
同じだべ物、同じ住居、同じ活動、同じ環境であれば、女は男よりも長生きすると言われています。人間に限らず、雌は常に雄よりも強い存在です。
40年以上も前のことですが、まだ小学校4年生であった私は、ある日転んで足に怪我をしました。直ぐに病院に行って手当てを受けたのですが、一週間後、体に異変を感じるようになりました。怠いというか、体が思うように動かなくなりました。母は私を別の病院に連れてゆきましたが、「単なる疲れでしょう。」と言われるだけで、全く良くなりませんでした。
数日後、口を開くことが困難になりました。母は私の異常を感じ、また別の病院に私を連れてゆきました。今度は、「歯医者に行ってみては」と言われました。
次の日は日曜で、私は立つこともできなくなっていました。どこの病院もやっておらず、月曜日に大きな病院で診てもらうおうと母は考えましたが、水を飲むことすらできなくなった私を見て、病院を電話帳で探しては電話をかけまくり、「破傷風」という初めて聞いた病気の可能性を知りました。
その日、私は救急車で東大関連の病院に搬送され、奇跡的に命が救われました。医者の診断よりも、素人の母の直感が勝ったのです。
女性には男性には見えない色の微妙な違いが判るそうです。それは本能的に赤ん坊の体の具合を判断するために持っているそうです。
来月は、母の日です。定番のギフトを贈るのもよいでしょうが。感謝の気持ちははっきりと伝えましょう。
2014年1月1日水曜日
母の思い出
2010年6月に他界した母。早いもので3年6か月がたちました。
母は昭和3年生まれで、青春時期はまさに太平洋戦争と敗戦による戦後直後の時期だったわけです。
今のようなスポーツを行うことはなく、あえて言うと「薙刀」 をやっていたそうです。これは戦争がもたらしたことです。戦後20年がたったころママさんバレーに夢中になっていました。後にも先のもスポーツはそれだけです。
初めての仕事は日立の軍需工場で電波探知機を作ることでした。終戦間近は、軍需工場であることでアメリカの空爆を特に受け、多くの同僚が死んだそうです。兄は霞ヶ浦海軍航空隊で戦死しました。
平和ボケの現在、このような過去を想像することは困難なのですが、時々母の青春時代を考えることがあります。常に死と向かい合わせで日々の生活を送り、それでも前向きに生き抜いた母と当時の日本人達の「精神」は、私の想像をはるかに超えるものです。
私の母は、母の日の贈り物を特には欲しがっていませんでした。 元々母の日は欧米から来たもので、母の若いころは、母親を敬うのは日々当たり前のことで、母の日だけというのが商業主義的な発想で嫌いだったようです。
そういうことで、母の日のお祝いで、私が母に贈ったものは無く、その代り、時間があれが、肩と両足を揉んであげることでした。それと母には作れない、洋菓子を一緒に食べることでした。
人にはそれぞれ異なった状況があります。気持ちのこもっていない花を上げるなら、温泉にでも連て行ってあげたらどうでしょう。
母は昭和3年生まれで、青春時期はまさに太平洋戦争と敗戦による戦後直後の時期だったわけです。
今のようなスポーツを行うことはなく、あえて言うと「薙刀」 をやっていたそうです。これは戦争がもたらしたことです。戦後20年がたったころママさんバレーに夢中になっていました。後にも先のもスポーツはそれだけです。
初めての仕事は日立の軍需工場で電波探知機を作ることでした。終戦間近は、軍需工場であることでアメリカの空爆を特に受け、多くの同僚が死んだそうです。兄は霞ヶ浦海軍航空隊で戦死しました。
平和ボケの現在、このような過去を想像することは困難なのですが、時々母の青春時代を考えることがあります。常に死と向かい合わせで日々の生活を送り、それでも前向きに生き抜いた母と当時の日本人達の「精神」は、私の想像をはるかに超えるものです。
私の母は、母の日の贈り物を特には欲しがっていませんでした。 元々母の日は欧米から来たもので、母の若いころは、母親を敬うのは日々当たり前のことで、母の日だけというのが商業主義的な発想で嫌いだったようです。
そういうことで、母の日のお祝いで、私が母に贈ったものは無く、その代り、時間があれが、肩と両足を揉んであげることでした。それと母には作れない、洋菓子を一緒に食べることでした。
人にはそれぞれ異なった状況があります。気持ちのこもっていない花を上げるなら、温泉にでも連て行ってあげたらどうでしょう。
2012年4月22日日曜日
母の日のギフト
私の母は2年前のがんで他界したため、母の日のプレゼントで悩むことはありませんが、もしまだ生きているとしたら、定番の花とか小物とかを選ぶのではなく、「紅茶」を贈っていたでしょう。
紅茶だけではさみしいので花も添えて贈るといいのではないかと思います。肥満体で低体温であった母には紅茶をたくさん飲ませればよかったと今後悔しているからです。紅茶は体温を上げ、脂肪を排泄させる効果があります。朝昼晩、1年中コーヒーを飲む習慣がありましたが、知らず知らずの内に体温を下げ、免疫力を弱めていたのではと今思うからです。
コーヒーがよくないといっているのではありません。コーヒーにも抗酸化の効果がありますが、寒い時期や脂っこい食事をしたときはコーヒーではなく紅茶を飲むほうが健康維持に効果が大きいことに注目しています。
現在では、流通や保管方法の発展で通年、亜熱帯地域で獲れたフルーツを食べることができます。真冬にマンゴーを食べれば体温を下げ、免疫力が低下します。
そういうわけで、母親の長生きを願うなら、紅茶ギフトをお奨めします。
紅茶だけではさみしいので花も添えて贈るといいのではないかと思います。肥満体で低体温であった母には紅茶をたくさん飲ませればよかったと今後悔しているからです。紅茶は体温を上げ、脂肪を排泄させる効果があります。朝昼晩、1年中コーヒーを飲む習慣がありましたが、知らず知らずの内に体温を下げ、免疫力を弱めていたのではと今思うからです。
コーヒーがよくないといっているのではありません。コーヒーにも抗酸化の効果がありますが、寒い時期や脂っこい食事をしたときはコーヒーではなく紅茶を飲むほうが健康維持に効果が大きいことに注目しています。
現在では、流通や保管方法の発展で通年、亜熱帯地域で獲れたフルーツを食べることができます。真冬にマンゴーを食べれば体温を下げ、免疫力が低下します。
そういうわけで、母親の長生きを願うなら、紅茶ギフトをお奨めします。
2012年2月5日日曜日
母への感謝
最近は家族内の不和で凶悪な犯罪が報道されるようになりましたが、よほどのことでもない限り、誰しも母親への感謝の気持ちは深いはずです。
「母の日に何を贈ったらいいだろうか」
母親の立場になって考えてみました。
まず、何といっても一番大切なことは、母親より長生きすることでしょう。
しかしながら、運命とは時に残酷で、子が不治の病、交通事故などで母親よりも先に旅経つこともあります。ならばせめて笑顔で接することでしょう。
「母の日に何を贈ったらいいだろうか」
母親の立場になって考えてみました。
まず、何といっても一番大切なことは、母親より長生きすることでしょう。
しかしながら、運命とは時に残酷で、子が不治の病、交通事故などで母親よりも先に旅経つこともあります。ならばせめて笑顔で接することでしょう。
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